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    かけはし2021年3月15日号

戦没者眠る南部の土砂を使うな


沖縄報告 3月7日

不法な辺野古埋立工事に

沖縄 K・S

3月1〜6日

県庁前、具志堅さん
ハンストに広がる共感


 3月1〜6日の一週間、県庁前広場にテントを張り、沖縄戦最後の戦場となった糸満・八重瀬の南部地区から辺野古埋立の土砂を採掘することに反対して、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんと支援の沖縄平和サポートの稲葉さんや宗教者たちによるハンガーストライキが貫徹された。

具志堅さんの訴えは単純明快だ

昨年4月に沖縄防衛局から辺野古新基地建設の設計変更計画が沖縄県に提出されました。それによると埋め立て用土砂を沖縄本島南部からも採取するとのことである。沖縄本島南部は去る沖縄戦で多くの住民や将兵が犠牲になりその遺骨も残っている地域である。沖縄防衛局が南部指定をしたことにより、普段我々が遺骨収集をしている糸満や八重瀬の緑地帯でも採石工事が行われるのではないかと危惧していた所、まさに的中する事態が起きてしまった。
場所は沖縄戦遺族にとっては祈りの聖地とも言うべき魂魄の塔のすぐ西側であり、現に我々が遺骨を掘り出している最中の緑地の現場が伐採されて採石場となってしまったのである。さらに、この様な緑地帯で新たな採石場の開発申請が他にも出されていることも聞いている。直近の政府による国会答弁では砕石業者に遺骨への配慮を要求する様であるが、経験と専門知識を要する遺骨収集は業者には無理である。それ以前に遺骨収集に関しては業者ではなく国に責任が有ることを2016年に成立した「戦没者の遺骨収集の促進に関する法律」に明記してある。そもそも戦没者の血のしみ込んだ南部の土砂を遺骨と共に軍事基地建設のための埋め立てに使うなど、戦没者への冒涜であり、人間の心を失った行為である。防衛局は南部からの埋め立て用土砂採取は断念すべきである。
ここに私は人道上の観点から戦没者遺骨の尊厳を守るため、〇沖縄防衛局による南部の土砂採取計画の断念〇沖縄県知事は自然公園法33条2項による砕石事業中止を発令すること。この2項目を要求してハンガーストライキを決行するものである(ハンガーストライキ決行趣意書)。

 

 テントには、島田善次、知花昌一、谷大二、黒柳堯憲、鴨下祐一さんをはじめ宗教者の方たちだけでなく、多くのボランティアが集まり、受付、チラシ配布、プラカードでの訴えを行った。毎日昼には集会が行われ、具志堅さんはマイクで知事室に向かって「戦没者を救ってください。デニーさん、助けてぃくみそーれ」と呼びかけた。地元紙にも連日報道され、新聞見たよ、テレビ見たよ、と参加する市民も増え、日を追うごとに共感が広がっていった。
辺野古の島袋文子さんはいち早く現場を訪れ、米軍の火炎放射器で焼かれ戦場を逃げまどった戦争体験を話し、激励した。県議会与党議員団は初日にそろって参加し連帯の言葉を述べた。具志堅さんは3日目に、沖縄県議会に対し、@熊野鉱山に対し自然公園法第33条2項による開発中止を命じること、A戦没者の遺骨が眠っている可能性が高い南部地区の未開発緑地帯での土砂・石材の採取を禁止する条例を制定すること、を求める陳情書を提出した。
外国特派員協会とはWEB記者会見を通じて、沖縄戦で行方不明になった米兵も239人いるという事実も伝えながら、戦跡の土砂の埋め立ての問題は米国も当事者であり関心を持ってほしいと訴えた。また、多くの戦争体験者もテントを訪れ、時に涙を浮かべながら自身の戦争体験を語り、南部の石灰岩採掘と辺野古への投入に反対する意思を示した。

玉城知事が現場訪れ、具志堅さんと対話

 ハンスト最終日の土曜日朝、玉城デニー知事がジャンパーとトレーニング服姿で現場に現われ、歓声と拍手に迎えられて、具志堅さんと約30分にわたって対話した。具志堅さんと共に知事との対話の場に参加した北上田さんによると、知事は熱心に耳を傾けた後、次のように語った。
「今回の問題について、どういう方向性で結論を出すか、今、一生懸命、考えています。南部の問題をどう考えるかということと、未来の子どもたちに沖縄らしい景観をどう残していくのか。まだこれについては具体的な形が見えているわけではないのですが、これは人道的にやってはならないということなので、それを法律的にどうするか、今、県でもみんなで検討しているところです。今回の場所だけではなく、いろんな場所にもつながるようにしていきたい。
県民の皆さんが、ここまで深い思いをもっておられることを、行政でもしっかりと受け止めていかなければならないと思います」(『チョイさんの沖縄日記』2021年3月6日)
昼にはオール沖縄会議も集会を開き、南部からの土砂採掘に抗議する声明を出した。1時半からは、一週間にわたるハンストの総括集会が谷大二さんの司会で開かれ、約200人が参加した。また、集会の場で、韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会の李熙子(イ・ヒジャ)さんからの「具志堅さま、島人の皆さま、頑張ってください!」とのメッセージが読み上げられた。
途中、午後2時からは、県庁前広場から具志堅さんが東京の渋谷ハチ公前での連帯集会にWEBを通して参加した。谷さんは「この一週間で、賛同の署名が1万4241名分集約された。未集約の分を合わせると2万を越えるだろう」と報告した。横田チヨ子さんは、自身のサイパンでの戦争体験について語りながら、「サイパンでも遺骨収集は出来ていない。沖縄から、若い人たちの力で平和の発信をしてほしい」と呼びかけた。日本山妙法寺沖縄道場の相原更紗さんは「私は小笠原の出身。祖父が沖縄戦に出兵した」と述べながら辺野古新基地に反対する決意を示した。糸満島ぐるみの金城さんは「ハイサイ、グスーヨー、チバラナヤーサイ」と切り出し、地元糸満からの土砂搬出に反対し辺野古を止める取り組みを強めようと呼びかけた。

8日から署名活動とチラシ配布を継続

 最後に、ハンストが終わるが闘いは始まりだと、3月8日月曜日から、毎日正午から3時まで、県庁前広場で、署名活動とチラシ配布を継続することが報告された。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(47)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』に採録されている証言についてはこれまでほぼ紹介した。前号に引き続いて、これから何回かに渡って紹介するのは、採録されていない証言の数々である。今号では、野砲隊で蹄鉄工として努め帰還した後青年団長をしていて、再び佐世保海軍工廠からの徴用命令を受けた玉那覇さんの体験を紹介する。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

『西原町史』第3巻資料編2
「西原の戦時記録」(1987年発行)

玉那覇全徳
「戦争にふりまわされた半生」

 私が兵役を満期になったのが昭和十七年の十一月ごろだったと思う。その頃になると街を歩く男の人たちは国民服に戦闘帽に身をかため、女の人たちはほとんどがモンペ姿でした。私は入隊するときは久留米の24連隊でしたが、満期前に熊本の21連隊の野砲隊に転属になり、そこで満期になった。
兵隊にいる時は、朝は6時から起こされ、床をとるとすぐに馬小屋に行って馬の手入れをし、それから朝食をとった。毎日演習に追われていた。一期の検閲が終わると、休む間もなく北支に向かった。
北支では朝から晩まで討伐にあけくれる毎日でした。私は当時、蹄鉄工でしたので、外の兵隊たちが休憩しているときでも、休憩するいとまもなく、馬の手入れをしなければいけなかった。なにしろ人間より馬の方が大切に扱われていた時代でしたので……。
夜になると班ごとに並べられ、「きさまたちは紙一枚で何人でも集まってくるのだぞ」と気合をかけられていた。馬はもうお馬様々でしたので、いつも気を使っていた。
しかし、日が過ぎるにつれて、諦めたのか、兵隊生活に慣れたのか、アリのように追い回されながらも辛抱することができた。
ただ辛抱することができなかったのは、煙草が吸えなかったことです。歌の文句ではないが、「一本の煙草もわけてのみ……」というのは、ほんとに経験した人でないとわかりませんね。
討伐中に、よその部隊とすれちがうときなど煙草をせがんで、一本でも入手できたら、まるで子供のように喜んで、みんなで二口ずつ回し飲みをしたものでした。
軍隊では、そんな毎日でしたので、しばらくは兵隊での疲れをいやそうと家でごろごろしていた。すると、青年団の連中がやってきて「ぜひ青年団長になってくれ」としきりにすすめるものだから、とうとう青年団長に引っぱり出されてしまった。
それからは毎日部落の青少年に村屋(公民館)で、竹槍訓練を教えたり、出征家族の家にいって農業の手伝いをしたり、またまた休む間もなく、まめまめしく働く毎日だった。仕事は主として、砂糖キビの手入れでしたが、刈り入れの時期になると、汗びっしょりになって、兵隊よりもきついなあと思ったりした。10時と3時に、あぜに腰をおろして煙草を吸うときの味はまた格別だった。
私が青年団長として毎日毎日を忙しく立ち回っているとき、たぶん昭和十八年の末ごろだったと思いますが、畑仕事から帰って来て一息入れていると、区長がやって来て、「またお国のために働くときがきたよ」といって、白紙召集の封筒をわたした。
わたくしは、しばらくはボウとしていたが、やがて気をとりなおして、ニッコリ笑って「ありがとう」と言って、封筒を開いて見た。佐世保海軍工廠からの徴用命令でした。
私の境遇は、私の意志とは関係なく、どんどん変わっていったが、一方では日本の歩みも大きく変動していた。
家族との団欒も束の間、またまた、私一人を孤独のなかに押しこんでしまったのです。当時は、私の家族は両親と兄貴(繁)と弟三人(実、重則、憲和)と、妹の政子、それに家内(春子)に子供(文子)がおった。
子供はまだ一歳でしたし、またまた父母兄弟たちと別れて暮らすのかと思うと、つらく悲しいことでしたが、誰もが同じように国のために働いているのだと思うと、辛抱するしかなかった。
やがてその日がやってきて、私は後ろ髪を引かれる思いで、家族に見送られ、トランク一つを持って那覇に向かった。
那覇では海邦会館に宿泊して、一週間の訓練を受け、それから夕方の5時ごろ見送り人のいない那覇港から出航した。当時は家族の見送りも許さないという軍からの命令でした。私はただ一人甲板に上って、去り行く那覇の街に別れを告げた。ふと後ろを眺めると護衛艦が2隻、ゆっくりついて来るのが見えた。……

【訂正とお詫び】前号(3月8日号)で、亀山琉大助教授としたのは助教の誤りでした。訂正します。


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